公図?? (V)o¥o(V)

ブログをご覧の皆様こんばんわ (^_-)-☆

今日のテーマは「公図」という図面についてです^^ 公図というのは、皆様が不動産を売買されたときに必ず目にされる図面の一つですが、

法務局で地番という所在地がわかれば、だれでも取得することができます^^

これは、土地の境界や土地の分かれかたなどを、いってみればおおまかに示した地図のようなものです!

この公図を見ることで、不動産屋さんは対象不動産の土地の形がおおまかにどうなっているのかや、

周りの土地の地番が書かれているので、その地番から登記簿謄本を閲覧することで

所有者を確認したり しています(^m^)

この公図はどのようにして作られるようになったのかを調べてみました^^

 

 

かつて、土地の大部分は農地で、領主・支配者は農民から年貢や地租(固定資産税のようなもの)を徴収して財源を賄っていました。 太閤秀吉が大規模な検地(太閤検地)をしたり、徳川吉宗が1726年、太規模な検地(享保検地)を行ったのは、 いずれもこの地租徴収のためであったそうです。 この享保検地の際に「検地帳」が作成され、これには土地の所在(字名、地番)、土地の等級(上、中、下)、 面積・所持者が一筆(一行)で記載されていたので、その後一個の土地を「一筆」と呼ぶようになったということだそうです^^ 江戸幕府は藩に命じて「国絵図」を作成させ、道路、河川などを俯瞰した、大雑把な見取図であったそうです。 また、江戸時代の検地の際には地番を入れた「地引絵図」などが作成されましたが、これらも現地復元力のない 見取図的なものであったようです。 日本において土地の近代的所有権が確立したのは明治維新後で、明治4年に廃藩置県が行われ、明治5年には土地売買の自由が認められ、 官有地、私有地などに地券が発行されましたが、この地券は一筆の土地ごとに発行されました。 この地券発行は地租制度改正のためで、明治6年に地租改正の太政官布告がなされ、全国的に土地調査と地価の確定がなされました。 当時、私有地の8割は農地で、一筆ごとの測量が行われ、市街地の宅地についても地券が発行され、 明治14年にこの事業は終わったようです。 この地租改正に伴う測量には農民の抵抗が予想され、現実に騒動が頻発したので 政府は測量をほぼ人民に任せ、官は補充的検査をするにとどめました。 この測量においては、一筆の土地の位置・形状・地番・面積を記載した「野取図」または「一筆限図」という図面が作成され、 これを字単位に連合した「字限図」・村単位に連合した「村限図」が作成、提出されました。 これら三種類の絵図は「野取絵図」または「字図」と総称され、土地台帳制度における地図、すなわち「公図」の原型となりました。 当時、農地の測量は全土地について行われたのではなく、一字数カ所行われたに過ぎず、あとは歩測、目測であったようです。 しかも、測量方法は十字法、三斜法という原始的なもので、誤差が30分の1までは許容されました。 宅地の測量は農地よりは多少良かったようですが、山林原野は殆ど実測されず、目測、歩測に頼っていました。 明治17年に新たに土地台帳が課税台帳となり、役場がこれを管理するようになりましたたが、 この台帳には付属地図を備え付けることとなりました。しかし、前記「野取絵図」は粗雑なものであったので、 明治18年から22年にかけて、絵図の更正がなされ、新たに作成された地図は「地押調査図」または「更正図」と呼ばれました。 明治22年に地券制度は廃止され、土地台帳が課税台帳となり(保管者は府県庁、村役所)、 この「更正図」が土地台帳付属地図、すなわち「公図」となったそうです。

・・・なるほど、公図はもともとは税金を徴収するために作られたものなんですね^^

興味をお持ちの方は一度、法務局で検討している土地や所有されている

不動産の公図を取得してみると いろいろとわかることがあるかもしれませんね♪